rāja-vidyā rāja-guhyaṁ pavitram idam uttamam pratyakṣāvagamaṁ dharmyaṁ su-sukhaṁ kartum avyayam

ラヌゞャノィデャヌラヌゞャグヒャンパノィトラミダムッタマンプラテャクシャヌノァガマンダハルミャンススカハンカルトゥマノャダン

rāja-vidyā —教育の王; rāja-guhyam —秘奥な知識の王; pavitram —最も玔粋な; idam — この; uttamam —超越的な; pratyaksÌ£a —盎接の䜓隓により; avagamam —理解した; dharmyam —宗教の; su-sukham — ずおも幞犏; kartum — 実行するのが; avyayam —氞遠の


この知識は教育の王、すべおの神秘のなかの最秘、最も玔粋な知識である。自己の本性を悟りによっお盎接感知できるので、たさに宗教の完成である。これは氞久の知識であり、楜しく実行できる。

『バガノァッド・ギヌタヌ』のこの章は“教育の王”ず称しおある。なぜなら、ここに述べおある内容は、いたたで説明した教矩原則、たた諞哲孊の粟髄゚ッセンスだからだ。むンドには䞻芁な哲孊者が人いる。ガりタマ、カナヌダ、カピラ、ダヌゞュナノァルキャ、シャヌンディリダ、ノァむシュノァヌナヌラ、そしお最埌にノェヌダヌンタ・スヌトラの孊者であるノィダヌサデヌノァ。したがっお哲孊や超越的知識の分野においおは、䜕䞀぀䞍足しおいるものはない。ここで䞻はおっしゃる。「この第章はあらゆる哲孊、超越的知識の王であり、たたノェヌダの孊習、様々な皮類の哲孊を孊んで埗られる党知識の粟髄゚ッセンスである。」ず。肉䜓ず魂の盞異を理解するこずを含んだこの秘奥な知識の王は、極たるずころ献身奉仕ずなるのだ。 ふ぀う、人々はこの秘奥な知識に関する教育を受けおいない。倖偎の、衚面的なこずに぀いお教育されおいるだけだ。䞀般的な教育は実に様々な郚門を含んでいる。――政治孊、瀟䌚孊、物理孊、化孊、数孊、倩文孊、工孊等々――䞖界䞭には実に倚くの知識分野があり、そしおたた、巚倧な倧孊が沢山あるのだ。しかし、䞍幞なこずに、粟神魂の科孊を教えおくれる倧孊や教育機関は䞀぀もない。肉䜓にずっお魂が最も重芁な郚分だずいうのに――。魂がなかったら肉䜓など䜕の䟡倀もない。それなのに人々は肉䜓に必芁なこずのためにやたらず努力奮闘しおいお、䞀番倧切な魂に぀いおはたるで無関心なのである。 『バガノァッド・ギヌタヌ』の第章からは、魂の重芁性を殊のほか匷調しおいる。最初に䞻は「肉䜓は滅びるが魂は䞍滅である」ずおっしゃっおいる。このこずが䞀぀の秘奥な知識である。粟神魂はこの肉䜓ずは別のもので、本来死ぬこずも壊れるこずもなく氞遠に存圚する――単にこれを知っおいるだけでは、魂に぀いおの積極的な資料ではない。「魂は肉䜓ずは別のもので、肉䜓が終わっお、肉䜓から解攟されたら、個性を無くしお魂は“空”に垰る」――こんなふうに思っおいる人々もいる。しかし、実際にはそれは真実ではない。この肉䜓の䞭にいおさえこんなに掻動的な魂が、肉䜓から解攟されたら党く䞍掻動になる――そんなこずがあり埗るだろうか魂は垞に掻動的である。そしお魂が氞遠の存圚ならば、魂は氞遠に掻動する。そしお魂の粟神的な王囜における諞掻動こそ、粟神的知識のなかでも最も秘奥な郚分なのだ。したがっお、粟神魂のこういった掻動はここで、すべおの知識の王、すべおの知識の最も秘奥な郚分ず述べおある。 ノェヌダ文兞でも説明しおある通り、この知識はあらゆる掻動のなかで最も玔粋なものだ。『パドマ・プラヌナ』には人間の眪悪業に぀いお分析しおあり、眪は眪を呌ぶず蚀っおいる。果報を求める掻動をしおいる人々は、次々ずちがった階段を盞すがたの眪悪的な反䜜甚にも぀れおいくのだ。たずえば、ある暹の皮を蒔いおも、それはすぐに暹朚になるわけではない。それには時間がかかる。最初は小さな芜を出し、次第に朚の圢になっおいく。それから花が咲き、実を結ぶ。そしお皮を蒔いた人が、その花や果実を享受する。これを同じように、人がある眪悪業をしおも、それが実を結ぶたでには時間がかかるのだ。いろいろな段階を通過する。その人がその眪悪業を䞭止しおいおも、行っただけの眪悪業の結果は必ず実を結んで、その人の手元に還るのだ。たた皮の圢のたたの眪もあるし、既に実を結んで、灜難ずか苊痛ずかの圢で私たちが味わっおいる眪もある。 第章の第節に説明しおあるように、すべおの眪悪業の報いを完党に受け終えた人、それから、この物質界の二元性から解攟されお敬虔な掻動ばかりを為しおいる人々はバガノァヌン、クリシュナぞの献身奉仕をするようになる。぀たり、実際に至䞊䞻ぞの献身奉仕をしおいる人々は、あらゆる眪の報いから既に解攟されおいる、ずいうこずだ。これは『パドマ・プラヌナ』のなかで確蚌しおある。 aprārabdha-phalaṁ pāpaṁ kūṭaṁ bÄ«jaṁ phalonmukham krameṇaiva pralÄ«yeta viṣṇu-bhakti-ratātmanām バガノァヌンに献身奉仕をしおいる人々の眪悪業の報いは、たずえそれが既に結実しおしたったものでも、たた成長䞭のものでも、或いはただ皮の圢であるものも、党郚が次第に消滅しおいく。かくの劂く献身奉仕の浄化力はたこずに匷力なのだ。だからパノィトラム・りッタマず呌ばれる。最も玔粋なるもの、ずいう意味だ。りッタマは超越的な、ずいうこず。タマスはこの物質界、たたは暗黒ずいうこず。そしお、りッタマは物質的掻動を超越しおいるずいうこず。時には献身者が䞀般の人ず同じこずをしおいるように芋えおも、献身者は決しお物質次元のものではない。献身奉仕の内茪に入っおよく芳察すれば、圌らの行動は物質次元ではないこずがわかる。圌らは皆、粟神的で、献身的であっお、物質自然の性質グナに汚されおいないのである。 献身奉仕をするずいうこずは実に完璧であり、人はその功埳を盎接感知できるず蚀われおいる。この盎接の功埳は実際に感知できる。誰でもクリシュナの聖なる埡名ハレヌ・クリシュナ・ハレヌ・クリシュナ・クリシュナ・クリシュナ・ハレヌ・ハレヌハレヌ・ラヌマ・ハレヌ・ラヌマ・ラヌマ・ラヌマ・ハレヌ・ハレヌを䟮蟱するこずなく唱えおいる人は、そのうち必ず、或る超越的な喜悊を感じるようになり、非垞に急速にすべおの物質的汚染を浄化しおいくのだ。これは私たちが実際に経隓しおいるこずなのだ。たた、献身奉仕に぀いお聞いおいるだけでなく、実際に自分も献身掻動のメッセヌゞを宣垃しようず努力したり、クリシュナ意識の䌝道掻動を揎助しおいる人は、次第に粟神的な進歩を遂げおいくのを感じるようになる。粟神生掻におけるこの発達は、それたで受けおきた教育や資栌にたよるものではない。その方法自䜓があたりにも玔粋であるために、ただそのなかに入るだけで人は玔粋になるのだ。 『ノェヌダヌンタ・スヌトラ』にも、このこずが次のように曞いおある。「献身奉仕はたこずに匷力な功埳があり、献身奉仕の諞掻動に埓事しただけで、その人は疑いなく啓発される。」ず。このこずの実際的な䟋をナヌラダの前䞖に芋るこずができる。圌は前䞖で女䞭の息子で、䜕の教育も受けおおらず、高い家系に生たれたわけでもなかった。しかし圌の母芪が偉倧な献身者に仕えおいた時、ナヌラダもその手䌝いをしおいた。母が留守のずきには時々、圌自身がその偉倧な献身者たちに仕えるこずもあったのだ。ナヌラダ自身がこう語っおいる。 ucchiṣṭa-lepān anumodito dvijaiឥ sakṛt sma bhuñje tad-apāsta-kilbiá¹£aឥ evaṁ pravṛttasya viśuddha-cetasas tad-dharma evātma-ruciឥ prajāyate 『シュリヌマド・バヌガノァタム』のその節で、ナヌラダは自分の前䞖に぀いお圌の匟子ノャヌサデヌノァに語っおいる。少幎の頃、圌は玔粋な献身者たちが滞圚しおいたヶ月の間、圌らにボヌむずしお仕え、芪しく亀際した。時々この聖者たちは皿に食物を残すこずがあり、圌らの皿をい぀も掗っおいたこの少幎はその残り物を味わっおみたくなった。それで圌はその偉倧な献身者たちの蚱可を埗お、圌らがくれた時にナヌラダはその残り物を食べた。そうしおいるうちに圌はすべおの眪悪業の報いから解攟されおいった。残り物をいただいおいるうちに、䞻に぀いお聞いたり唱えたりするこずによっお絶え間ない䞻ぞの献身奉仕の味を楜しんでいた。そしお、ナヌラダは埐々に同じ味わいを発達させおいったのだ。ナヌラダはさらにこう蚀っおいる。 tatrānv-ahaṁ kṛṣṇa-kathāឥ pragāyatām anugraheṇāśṛṇavaṁ mano-harāឥ tāឥ śraddhayā me ’nu-padaṁ viśṛṇvataឥ priyaśravasy aṅga mamābhavad ruciឥ その聖者たちずの亀際によっお、ナヌラダは䞻の栄光に぀いお聞いたり唱えたりするこずに味わいを埗た。そしお圌は献身奉仕ぞの倧いなる望みを育おたのだ。だから『ノェヌダヌンタ・スヌトラ』に“プラカヌシャシャ・チャ・カルマナむ・アビダヌサヌト”ず曞いおあるように、献身奉仕にかかわる諞行為にたずさわっただけで、すべおのこずが自然に明らかになり、理解できるようになる。このこずを“プラティカシャ”――「盎接感知」ず称する。 “ダルマダム”ずいう蚀葉は「宗教の道」ずいう意味である。ナヌラダは実際女䞭の息子だった。孊校に通う機䌚などなかった。ただ母芪の手䌝いをしおいるだけだったが、幞いにも圌の母は献身者たちに仕えおいた。だから子䟛のナヌラダも機䌚を埗、ただその亀際だけによっお圌はすべおの宗教が最高の目暙ずしおいるずころを達成したのだ。『シュリヌマド・バヌガノァタム』に曞いおあるように、すべおの宗教の最高の目暙は献身奉仕である。宗教的な人々は䞀般に、宗教が目指す最高の完成が献身奉仕であるこずを知らない。第章の最埌の節に関しお既に論じおきたように自己の悟りのためには、ふ぀うノェヌダの知識が必芁ずされおいる。しかし、ここでは決しお粟神の垫グルの孊校にいったこずもなければ、ノェヌダを孊んだこずもなかったナヌラダが、ノェヌダを孊び぀くした最高の成果を達しおいるのだ。この方法は実に効果があるので、宗教的な修緎を芏則正しく実行しなくおも、最高の境地に達せられる。そういうこずがいかにしお可胜なのだろうかこれもノェヌダ文兞に確蚌しおある。“アヌチャヌリダノァヌン・プルショ・ノェダ”偉倧なアヌチャヌリダたちず亀際しおいる人は、たずえ教育が無くずもノェヌダを孊ばずずも、悟りのために必芁なあらゆる知識を身に぀けるこずができる。 献身奉仕は非垞に矎しいススカム方法である。なぜだろう献身奉仕はシュラノァナム・キヌルタナム・ノィシュノから成っおいるので、人はただ䞻の栄光を聞いお唱えお、正統なアヌチャヌリダたちの、超越的な知識に関する哲孊的な講矩に出垭するだけでよい。ただ座っおいるだけで孊ぶこずができるのだ。それから、神に捧げた食物のお䞋がり、矎味しいご銳走も食べられる。どの䞀぀ずっおも献身奉仕は楜しい。どんなに貧しい境遇にあっおも献身奉仕はできる。䞻はおっしゃる。「パトラム・プシュパム・パラム・トダム」圌は献身者からそんな皮類の捧げ物でも受け取っお䞋さる。䜕を捧げるかなど䜙蚈な心配は䞍必芁だ。朚の葉でも、花でも、果物の䞀片でも、ほんの少しの氎でも、䞖界䞭のどこでも埗られるから、誰でも、そんな瀟䌚的身分の人でも捧げるこずができる。ただ愛を蟌めお捧げるならば、䞻は受け取っお䞋さるのだ。昔から沢山の䟋がある。䞻の蓮華の埡足に捧げられたトラシヌの味わっただけで、サナト・クマヌラのような偉倧な聖者たちが、偉倧な献身者になったのだ。このような献身奉仕の方法は実に結構なもので、幞犏感に浞りながら修緎できる。神は捧げられたものにこめられた愛だけを受け取られるのだ。 この献身奉仕は氞久に存続するず、ここで蚀っおいる。マヌダヌノァヌディヌ哲孊者たちが䞻匵するようなものではない。圌らは時々いわゆる献身奉仕をするけれども、圌らの考えずいうのは、「ただ解攟されおいないうちは献身奉仕を続けるけれど、最埌に解攟されたら、“神ず䞀䜓になる”になる」ずいうものだ。こんな䞀時的な埡郜合䞻矩的な献身奉仕は、玔粋な献身奉仕ではないのだ。本圓の献身奉仕は解攟された埌も続く。献身者が、神の王囜内に属する粟神惑星に行くず、そこでたた至䞊䞻にお仕えする。至䞊䞻ず䞀䜓になっおしたおうなどずはしないのだ。 『バガノァッド・ギヌタヌ』を読めばわかるように、本圓の献身奉仕は解攟されおから始たる。解攟された埌、ブラフマンの境地ぞブラフマ・ブヌタに達した時、人の献身奉仕は始たるのだ。カルマ・ペヌガ、ゞュニャヌナ・ペヌガ、アシュタヌンガ・ペヌガ、その他のどんなペヌガでも、それだけではバガノァヌンを理解するこずは誰にもできない。これらのペヌガの方法は、バクティ・ペヌガに向けお少しの進歩をするこずができるかもしれないが、献身奉仕の段階たでこなければ、バガノァヌンに぀いお理解するこずはできない。『シュリヌマド・バヌガノァタム』にも、「献身奉仕の実践、特に『シュリヌマド・バヌガノァタム』や『バガノァッド・ギヌタヌ』を、悟った魂から聎くこずによっお浄化された時、人はクリシュナの科孊、぀たり神の科孊を理解できる」ず、はっきりず曞いおある。あらゆる転倒劄想(ナンセンスがハヌトから払い枅められたずき、人は神を知るこずができる。すなわち献身奉仕の方法、クリシュナ意識の方法こそ、すべおの教育の王であり、すべおの秘奥な知識の王である。それは最も玔粋な圢の宗教であり、しかも難しくなく、楜しく実行できる。だから、人はこの方法を採るべきなのだ。