絶対真理者を悟ろうとする人々は、その捉え方に忚じて類別されます。ブラフマンを瞑想する人々、つまり非人格主義論者はブラフマヴァーディー(brahmavädi)と呼ばれます。一般的に、絶対真理者を悟ろうとする人々は、最初にブラフマジョーティ(brahmajyoti)を理解します。パラマートマー(Paramätmä)と呼ばれる局所的な存在である至高の魂に心を集中させる人々は、パラマートマヴァーディー(paramätmävädé)と呼ばれます。至高主は、完全な拡張体として全生物の心のなかに入り、この姿は瞑想や集中によって見られるようになります。主は、すべての生物の心はもちろん、創造世界にあるすべての原子のなかにもいます。パラマートマーの悟りは2番目に得られます。最後の3番目の悟りは、バガヴァーン・最高人格主神です。悟りには3段階あるため、最高絶対真理者は1回の誕生で悟ることはできません。Bahünäm janmanäm ante(バフーナーン ジャンマナーン アンテー)。幸運な人ならすぐに究極の悟りに到達できます。しかし、神を悟るにはふつう多くの年月や誕生を経なくてはなりません。
アハンム サルヴァッシャ プラバハヴォー
aham sarvasya prabhavo
マッタ サルヴァンム プラヴァルタテー
mattah sarvam pravartate
イティ マトゥヴァー バハジャンテー マーンム
iti matvä bhajante mäm
ブダハー バハーヴァ ・サマンヴィターハ
budhä bhäva-samanvitäh
「わたしは、精神界・物質界すべての源である。すべてはわたしから発出された。この事实を完璧に知る賢者はわたしへの献愛奉仕に没頭し、真心こめてわたしを崇拝する」(『バガヴァッド・ギーター』第10 章・第8節)
経典『ヴェーダーンタ・スートラ』も、絶対真理者を「すべてを誕生させた源の人物である」と明言しています。クリシュナがすべての源であることを真に納得し、崇拝すれば、すぐに物質界とのかかわりはなくなります。しかしクリシュナを信じず、「いや、私は神がどういうものか自分の目で見たい」と言うのであれば、「この方こそ最高人格主神である」という最終的な悟りを得るまえに、まず非人格的なブラフマンの光輝、次に局所的なパラマートマーの悟りという過程をとおらなくてはなりません。しかしこれには長い歳月が必要です。長年の追究の果てに絶対真理を悟れば、väsudevah sarvam iti(ヴァースデーヴァ サルヴァン イティ)「ヴァースデーヴァがすべてである」という結論に達します。ヴァースデーヴァ(Väsudeva)はクリシュナの名前のひとつで、「あらゆる場所に住む方」という意味です。ヴァースデーヴァが万物の根源である、mäm prapadyate(マーン プラパデャンテー)と悟る人は、主に身をゆだねるようになります。身をゆだねるその境地こそが究極のゴールです。それがすぐにできる人もいるでしょうし、何度も生まれ変わりながら求めた果てに達成する人もいます。どちらにしても、「神は偉大である、そして私は神に従う立場にある」と悟ることで、主に身をゆだねなくてはなりなりません。
賢い人はこのことを理解し、無数の誕生を待つことなくすぐに服従します。そして、このような情報は、条件づけられた魂のために至高主が深い慈悲心から授けてくれたものと理解します。私たちは誰でも条件づけられた魂であり、物質界の三重の苦しみを味わっています。そんな私たちのために、至高主は、身をゆだねる方法をしめすことで苦しみから救われる機会を授けているのです。
この話を聞いて、「最高人格者が究極のゴールで、主に服従しなくてはならないのであれば、なぜ世界中にこれほど多くの服従の仕方があるのか」と尋ねる人がいるかもしれません。この質問に次の節が答えています。
カーマイス タイス タイル フリタ・ギャーナーハ
kämais tais tair hrta jnänäh
プラパデャンテー ニャ ・デーヴァターハ
prapadyante 'nya-devatäh
タンム タンム ニヤマム アースタハーヤ
tam tam niyamam ästhäya
プラクリテャー ニヤターハ スヴァヤー
prakåtyä niyatäh svayä
「心が物質的な望みによってゆがめられている者たちは半神に服従し、自分の気質に忚じて特定の規則や原則に従う」(『バガヴァッド・ギーター』第7章・第20 節)
世界にはさまざまなタイプの人間が暮らしており、物質自然の三性質に操られて行動しています。一般的に言えることですが、ほとんどの人は解脱を求めてはいません。精神的な物事を求めはしても、その精神的な力でなにかを得ようとします。インドでは、スワミに対して「スワーミージー、私はこういう病気で苦しんでいます。どうか薬を授けてください」と頼むのは珍しいことではありません。医者に診てもらえば高い治療費を要求されますから、奇跡を起こしてくれるスワミになんとかしてもらおうとするのです。またインドでは、スワミが一般家庭を訪ねて、「私に1ルピー渡せば、それを100 ルピーにしてみせる」と言ったりします。言われた人は、「5ルピー渡せば500 ルピーにしてくれるわけだから、ひとつやらせてみるか」と考えます。こうしてそのスワミは村中の金を集めると、あとは雲隠れ。これが私たちの病気です。相手がスワミであろうと寺院や教会であろうと、求める人の心には物質的な望みしかありません。精神生活をして物質的な利益を求め、体を健康にするためだけにヨーガをやってみる。しかし、ただ健康を守るのにどうしてヨーガにすがろうとするのでしょう。ふつうの体操や規則的な食事をしていれば健康でいられるはずです。なぜヨーガに頼るのでしょう。その答はkämais tais tair håta-jïänäù(カーマイス タイス タイル フリタ・ギャーナーハ)ということばにしめされています。教会に行き、神を「要求に答えてくれる相手」にして、健康な人生を楽しもうとする望み――だれもがそのような傾向を持っているからです。
人々は、物質的な望みを心に抱いてさまざまな半神を崇拝します。物質的な状態から抜けだすことなどは考えません。できるだけ物質界を利用したいと考えているだけです。ヴェーダ経典には多くの助言が用意されています。病気を治したければ太陽を崇拝し、夫が欲しい女性は主シヴァを崇拝し、美しくなりたければこの半神・あの半神を崇拝し、教養を身につけたければサラスヴァティー女神を……などと書かれています。このため、西洋人はヒンドゥー教を多神教だと考えます。しかし、この崇拝の対象は神ではなく、半神です。半神と神は違います。神は一人ですが、私たちとおなじ生物である半神も存在しています。私たちと半神の違いは、半神が強大な力を持っているという点にあります。地球には国王、大統領、独裁者がいます――私たちとおなじ人間です。しかしかれらは並外れた力を持っており、大衆はうまく取りいってその力を利用しようと考え、いろいろな方法でかれらを崇めます。しかし、『バガヴァッド・ギーター』は半神の崇拝を強く戒めています。この節は、人々が自分のカーマ(käma)・物質的な欲望を満たすために半神を崇拝している、と明言しています。
物質生活は欲望だけに支えられています。この世界を楽しみたいと望み、感覚を満たしたいと思っているからこそ物質界が好きなのです。この欲望は、神への愛情がゆがんだ形で現われているものです。魂はもともと神を愛する質に満たされています、しかし神を忘れてしまったために、物質を愛するようになってしまいました。愛情は確かに存在しています。物体を愛そうと、神を愛そうと、愛情であることに変わりありません。いずれにしても、愛そうとする気質を失うことはありません。子どものいない人が猫や犬に愛情を寄せる姿をよく見かけますが、それが証拠です。なぜでしょう? なにかを愛さずにはいられないからです。そして真实を見失っているために、信頼や愛情を犬や猫に寄せるのです。愛する気持ちがなくなることはありませんが、欲望という形でゆがんで現われます。この欲望が満たされないと怒りが起こり、その怒りによって幻想が生じます。幻惑されると運に見放されます。私たちの感情はこのように変化していきますから、この流れをくつがえし、欲望を愛情に変えなくてはなりません。神を愛することができれば、すべてを愛せるようになります。神が愛せなければなにも愛することはできません。愛情だと思っていても、じつは姿を変えた欲望です。欲望のとりこになった者は正しい判断力をなくしたに等しい、と言われています。Kämais tais tair håta-jnänäh(カーマイス タイス タイル フリタ・ギャーナーハ)。
半神を崇める規則や原則が経典にたくさん用意されていますが、どうしてヴェーダ経典がそのような崇拝を勧めるのか疑問に思う人がいるかもしれません。必要性があるからです。欲望に駆られた人はなにかを愛そうとしますが、その対象となる半神は至高主の行政官とされています。この考えは、「半神を崇拝するうちにやがてクリシュナ意識を高めていくことができる」という配慮に基づいています。しかし、完全に無神論者になってすべての権威者に反抗する人に、希望はありません。このように考えると、自分よりも高い人物に対する服従心は半神からはじまる、ということが言えます。
けれども、至高主を最初から崇拝すれば半神を拝む必要はないはずです。至高主を崇拝する人は半神にも敬意をしめしているのであり、半神の背後に最高の権威者である最高人格主神がいることや、半神が至高主を崇拝していることも知っていますから、半神を拝む必要はありません。敬う、という心情はどちらもおなじです。主の献愛者はアリにでさえ敬意を払いますから、半神に敬意を払うのはあたりまえです。献愛者はすべての生物が至高主の部分体であり、さまざまな役割を果たしていることを知っているのです。
どんな生物にも至高主との絆がありますから、敬意を払わなくてはなりません。だから献愛者は他の人を「先生、主人」という意味のprabhu(プラブ)という名称で呼びます。従順さが主の献愛者の特質です。献愛者は親切で忠实で、そしてあらゆる優れた気質をそなえています。結論として、主の献愛者になればすべての優れた気質が自然に沸きおこってくると言えます。生物は本来完璧な存在なのですが、欲望というけがれのために邪悪な性格を持つようになりました。金の一部も金であり、完全に完璧な人物の部分体もやはり完璧である――これは、私たち生命体と神の関係をしめしています。
オーム プールナンム アダハ プールナンム イダンム
om pürnam adah pürnam idam
プールナートゥ プールナンム ウダチャテー
pürnät pürnam udacyate
プールナッシャ プールナンム アーダーヤ
pürnasya pürnam ädäya
プールナンム エーヴァーヴァシッシャテー
pürnam evävasisyate
「人格主神はすべてにおいて完全であり、また完全無欠な方であるため、この物質現象界のように、人格主神から発出されたものはすべて完璧な全体として機能をそなえている。完全全体者である人格主神が作ったものはすべて、それ自体完璧である。人格主神は完全な全体者であるため、人格主神から無数の完璧な単一体が放出されても、人格主神は完璧な調和を保っている。」(『シュリー・イーショーパニシャッド』祈願節)。
生命体は本来完璧ですが、物質にけがされて物質界に転落しました。しかし、クリシュナ意識という方法に従えば、ふたたび完璧な状態にもどれます。クリシュナ意識を修練すれば真に幸福になり、肉体を離れたあとに、永遠な生活と至福、そして完全な知識に満たされた神の国に入ることができるのです。
完