* 2: クリシュナが話すことは、すべて永遠な知識です。その中身が変わることはありません。今私たちがどんな仕事をしているか、アルジュナがどのような仕事をしていたかは問題ではありません――意識を変えるだけでいいのです。人々は自分の興味だけに導かれて生きていますが、何が本当の興味なのかを知りません。じつは、自分の興味ではなく感覚の興味に動かされています。何をするにしても感覚を満たすために行動しているのです。変えるのはこの意識です。その意識に、私たちのほんとうの興味、すなわちクリシュナ意識を植えつけなくてはなりません。
どうすれば、それができるのでしょうか。毎日暮らしていくなかで、どうすればクリシュナ意識をはぐくむことができるのでしょうか。クリシュナはそのかんたんな方法を教えています。
ラソーハンムアプスカウンテーヤ
raso 'ham apsu kaunteya
プラバハースミシャシ・スーリャヨーホ
prabhäsmi sasi-süryayoh
プラナヴァハサルヴァ・ヴェーデーシュ
pranavah sarva-vedesu
シャブダハケーパウルシャンムヌリシュ
sabdah khe paurusam nrsu
「クンティーの子・アルジュナよ。わたしは水の味、太陽と月の光、ヴェーダ・マントラの音節オーム(om)、空間にある音、人間の能力である」(『バガヴァッド・ギーター』第7章・第8節)
この節でシュリー・クリシュナは、毎日の暮らしをつづけながら完璧にクリシュナ意識になれる方法を教えています。どんな生き物でも水を飲む必要があります。水の味はすばらしく、喉が渇いているときには水でなければその渇きを癒すことはできません。どんな会社にも純粋な水の味は作れません。水がこれほどすばらしいのですから、私たちは水を飲むときにクリシュナ・神を思いだすことができます。毎日の生活に水は欠かせませんから、そのようにして神を意識することができるのです――忘れるわけがありません。
また、光る物もクリシュナです。精神界の光の源・ブラフマジョーティ(brahmajyoti)はクリシュナの体から放たれています。物質界は覆われている世界です。物質宇宙の本来の姿は暗闇であり、夜がその暗闇の表われです。太陽、月、電気という模造の光で照らされているのがこの物質界です。では、この光はどこから発生しているのでしょうか。太陽はブラフマジョーティ、すなわち精神界のまばゆい光に照らされています。精神界に太陽、月、電気などは要りません。ブラフマジョーティに照らされているからです。しかし、地球にいる私たちでも、太陽から放たれている光を見たらクリシュナを思いだすことができます。
オーム(Oà)から始まるヴェーダのマントラを唱えても、クリシュナを思いだすことができます。「オーム」ということばは、「ハレー・クリシュナ」のように、神に対する呼びかけであり、クリシュナを指しています。Çabdaù(シャブダ)は「音」の意味で、どんな音を聞いても、それは根源の音、すなわち純粋で精神的な音・オームあるいはハレー・クリシュナであると理解してください。この世界で聞くどんな音も、根源の崇高な音・オームから発生したものです。このように、音を聞いたとき、水を飲んだとき、光を見たときに神を思いだすことができます。これができれば、神を思いださないときはありません。これがクリシュナ意識の方法です。こうすれば、クリシュナを1日24時間思っていられます。もちろんクリシュナはいつも私たちといっしょにいますが、このように思いだせば、主がじっさいに存在することを实感できます。
神と触れあうには9つの方法があり、最初の方法がçravaëam(シュラヴァナンム)――聞くことです。『バガヴァッド・ギーター』を読めばシュリー・クリシュナのことばを聞くことができますし、またそれはクリシュナ・神とのじっさいの触れあいにほかなりません。(献愛者が「クリシュナ」と言えば、それは「神」を指しています)。神と交流していれば、またクリシュナということばを聞きつづけていれば、物質自然のけがれが消えていきます。クリシュナを、音、光、水、またその他多くの物事そのものであると理解すれば、クリシュナを避けてとおることはできません。こうして主クリシュナを思いだすことができれば、主との交流も永遠につづくのです。
クリシュナと交流するのは、光に照らされることとおなじです。太陽の光があたるところにけがれはありません。太陽の紫外線に当たっていれば病気にはかかりません。西洋医学では、太陽の光はあらゆる病気の治療に勧められていますし、ヴェーダは、病人が太陽を崇拝して病気を治すよう勧めています。おなじように、クリシュナ意識でクリシュナと触れあえば私たちの不治の病も治ります。ハレー・クリシュナを唱えればクリシュナと交流できますし、水をクリシュナとして見、太陽や月をクリシュナとして見、音の中にクリシュナを聞き、水を飲んでクリシュナを味わうことができます。今私たちはクリシュナを忘れています。しかし今こそ、クリシュナを思いだして精神生活をよみがえらせなくてはなりません。
このsravanam kirtanam(シュラヴァナンキールタナン)――聞いて、唱えること――は、主チャイタンニャ・マハープラブが認めている方法です。主チャイタンニャは、友人で偉大な献愛者であるラーマーナンダ・ラーヤと話したとき、精神的な悟りを得る方法について尋ねました。ラーマーナンダは、varëäçrama-dharma(ヴァルナーシュラマ・ダルマ)、sannyäsa(サンニャーサ)・活動の放棄、またその他多くの方法を挙げましたが、主チャイタンニャは、「どれも優れた方法とは言えない」と答えました。ラーマーナンダが意見を言うたびに主チャイタンニャは否定し、精神的に高められるもっと良い方法を尋ねました。最後にラーマーナンダは、神を理解するには不必要な推論をすべて捨てるよう勧めるヴェーダの格言を引用しました。推論では決して究極の真理に到達できないからです。たとえば科学者は、遥かかなたにある星や惑星について推測していますが、じっさいに体験しなければ結論は出せません。全生涯を推論に費やしても、結論には到達できないということです。
特に、神について学ぶときに推論は役に立ちません。ゆえに『シュリーマド・バーガヴァタム』はいっさい推論をしてはいけない、と勧めています。従順な気持ちになり、自分はちっぽけな存在であること、また地球は広大な宇宙に浮かぶ小さな点にすぎないことを受けいれるのです。ニューヨーク市は大都市に見えるかもしれませんが、地球がこれほど小さな存在であることがわかれば、また合衆国もその地球の小さな場所であること、その合衆国にあるニューヨーク市がさらに小さな点にすぎないことがわかれば、自分がどれほど小さな存在かがわかるはずです。神の宇宙と比べた私たちの存在の小ささがわかれば、知ったかぶりをするのはやめて服従心を持つべきです。カエル博士の哲学の犠牲になってはいけません。
ある井戸にカエルが住んでいました。訪ねてきた友人から大西洋について聞いたカエルは、その友人に聞きました。
「へぇ、大西洋とはどういうところなの?」
「とてつもない量の水が広がっているところだよ」
「広い?どのぐらい?この井戸の倍はあるの?」
「とんでもない。もっとはるかに広いよ」
「もっと広い?10倍ぐらい?」
これがカエルの計算です。しかし、そんな頭で大西洋の深さや広さが理解できるでしょうか。私たちの能力、経験、空想力には必ず限界があります。このカエル博士の哲学と大差ありません。だからこそ『シュリーマド・バーガヴァタム』は、至高者を理解しようとする憶測をやめるよう助言しているのです。
推論がだめなら、どうしたらいいのでしょう。『シュリーマド・バーガヴァタム』は、従順な気持ちで神のことばを素直に聞くよう教えています。神のことばは『バガヴァッド・ギーター』や他のヴェーダ経典、聖書、コーランなど、正しい経典ならどこにでも見つけられますし、あるいは悟った人物から聞くこともできます。大切なことは、自分勝手に想像しないこと、神について素直に聞く、という点です。素直に聞いたらどういう結果が得られるのでしょうか。貧しくても、裕福でも、アメリカ人、ヨーロッパ人、インド人、ブラーフマナ、シュードラ、いやだれであろうとも、神の超越的なことばを聞けば、どのような力にも征服されない主を、愛情によって征服できます。アルジュナはクリシュナの友人でしたが、至高主神であるクリシュナはアルジュナの御者となって召使いの立場を受けいれました。アルジュナはクリシュナを心から愛し、クリシュナもそのようにアルジュナの愛情に忚えたのです。おなじように、クリシュナは幼いころ、父親のナンダ・マハーラージャの靴を自分の頭の上に乗せ、父親に仕えました。クリシュナと一体になろうと努力する人たちがいますが、じつはその状態さえ超えることができます。神の父親になれるのですから。もちろん、神はすべての生命体の父親で、そして神に父親はいませんが、それでも自分の献愛者、愛する人を父親として選びます。クリシュナは、愛情ゆえに献愛者に服従することがあります。大切なことは、主のことばを一心に聞こうとする姿勢です。シュリー・クリシュナは『バガヴァッド・ギーター』の第7章で、日々の暮らしのなかで毎瞬間主を感じる方法を教えています。
プニョーガンダハプリティヴャーンムチャ
punyo gandhah prthivyäm ca
テージャシュチャースミヴィバハーヴァサウ
tejas cäsmi vibhävasau
ジーヴァナンムサルヴァ・ブフーテーシュ
jivanam sarva-bhütesu
タパシュチャースミタパスヴィシュ
tapas cäsmi tapasvisu
「わたしは、土が持つ本来の香りであり、火の中の熱である。わたしは生きとし生けるものすべての命であり、あらゆる苦行者がおこなう苦行そのものである」(『バガヴァッド・ギーター』第7章・第9節)
Puëyo gandhaù(プニョーガンダハ)は「香り」のことです。クリシュナだけが味や香りを作りだすことができます。私たちも似たような味や香りを作ることはできますが、自然界にある本物ほど素晴らしいものではありません。芳(かぐわ)しい自然な香りを嗅いで「これは神、クリシュナ」と感じ、自然の美しさを見て「これがクリシュナだ」と感じることができます。また、並外れたもの、力強い、あるいは驚くべきものを見れば、「これがクリシュナ」と感じることができます。あるいは、木、動物、人間など、どんな姿の生物でも、その命はクリシュナの部分体であると理解しなくてはなりません。クリシュナの部分体である精神的火花がその体から去っていけば、体は腐っていくばかりです。
ビージャンムマーンムサルヴァ・ブフーターナーンム
bijam mäm sarva-bhütänäm
ヴィッデヒィパールタハサナータナンム
viddhi pärtha sanätanam
ブッデヒィルブッデヒィマターンムアスミ
buddhir buddhimatäm asmi
テージャステージャスヴィナーンムアハンム
tejas tejasvinäm aham
「プリターの子よ。わたしは全存在物の種であり、聡明な者の知性であり、あらゆる強靭な者の力である」(『バガヴァッド・ギーター』第7章・第10節)
この節でも、クリシュナが全生物の命の源であることがはっきりと説明されています。このように理解することで、私たちは神を毎瞬間見ることができます。よく「私に神が見せられるか」と挑戦する人がいます。もちろん、できます。神はさまざまな方法で見ることができるのです。しかしそう言いながら、目を閉じて「神を見るつもりはない」と言うのであれば、見られるわけがありません。
この節のbéjam(ビージャン)は「種」という意味で、その種は永遠(sanätanam・サナータナン)と明言されています。巨大な木が立っている――では、その源は?それがその種であり、そしてその種は永遠です。全生物の内に存在の種があります。体は数多くの変化をつづけます――母親の胎内で成長し、赤ん坊として外界に出て、子ども、大人へと。しかし、その肉体の中にある存在の種は永遠です。だからsanätanam(サナータナン)ということばが使われています。肉体は、目には見えない状態で毎瞬間変化しています。しかし、béjam(ビージャン)「種」、すなわち精神的火花は変わりません。クリシュナは「わたしは存在するものすべてのうちにあるこの永遠な種である」と自ら宣言しています。クリシュナの恩寵なくして、ずば抜けた知性を授かることはありません。だれでも他人より賢くなろうと努力していますが、クリシュナの恩寵がなければそれは实現しまん。ですから、ひじょうに賢い人物を見るときには、「その知性はクリシュナである」と考えるべきです。おなじように、強い影響力を見せる人もクリシュナの現われです。
バランムバヴァヴァターンムチャーハンム
balam balavatäm cäham
カーマ・ラーガ・ヴィヴァルジタンム
käma-räga-vivarjitam
ダハルマーヴィルッドーブフーテーシュ
dharmäviruddho bhütesu
カーモーアスミバハラタルシャバハ
kämo 'smi bharatarsabha
「バーラタ王家の主(アルジュナ)よ。わたしは、激情も欲望もない力強き者の力である」(『バガヴァッド・ギーター』第7章・第11節)
象やゴリラはとても力のある動物ですが、その力はクリシュナから授かっています。人間にはそのような力は出せませんが、クリシュナの恩寵があれば象よりも何千倍もの力を発揮できます。クルクシェートラの戦場で戦った偉大な兵士ビーマは、象の1万倍の力を持っていたと言われています。おなじように、欲情・カーマ(käma)も、宗教原則に反していなければクリシュナとして見ることができます。その欲情とは?一般的には性生活を指しますが、この節にあるkäma・カーマは、宗教原則に反していない性生活、つまり、優れたクリシュナ意識の子どもをもうけるための性生活のことです。それができるのであれば、何度でも夫婦の交わりはできますが、犬や猫のような子どもしか作れないのであれば、その性生活は宗教に反しています。宗教的・文化的な社会では、結婚とは優秀な子どもを作るために夫婦が性生活をすることを指しています。ゆえに、結婚したうえでの性生活は宗教的であり、未婚でありながら性行為をするのは反宗教的です。じっさい、世帯者の性行為が宗教原則に従っていれば、サンニャーシーと世帯者に違いはありません。
イェーチャイヴァサーットゥヴィカーバハーヴァー
ye caiva sättvikä bhävä
ラジャサースターマサーシュチャイェー
rajasas tämasäs ca ye
マッタエーヴェーティターンヴィッデヒィ
matta eveti tän viddhi
ナトゥヴアハンテーシュテーマイ
na tv aham tesu te mayi
「あらゆる存在――徳性、激性、無知――は、わたしのエネルギーの現われである。ある意味でわたしはすべてである、しかしまったく独立した存在でもある。わたしは、物質自然界のいかなる様式にもかかわっていない」(『バガヴァッド・ギーター』第7章・第12節)
クリシュナに尋ねる人がいるかもしれません。「あなたは音、水、光、香り、万物の源である種、力、カーマ・欲望である、と言っておられるが、それは、あなたが徳性の中だけに存在しているということなのか」と。物質界には徳性・激性・無知という3つの質があります。これまでクリシュナは自らを「善なる物事そのもの」と説明してきました(たとえば、既婚のセックスは宗教原則に基づいている、という点)。しかし、ほかの質ではどうでしょうか。その中にクリシュナは存在しないのでしょうか。その答としてクリシュナは、物質界で見られるものはすべて物質自然の3つの質の相互作用で起こる、と説明しています。私たちが目にするものはなんであろうと、それは徳性・激性・無知の組みあわせであり、そのすべてが「わたしによって作られた」ということです。クリシュナに作られたものですから、その存在自体はクリシュナの内にありますが、クリシュナは三様式を超えた存在ですからその中にはいません。この理由から、ある意味では無知によって作られた邪悪なことであっても、クリシュナがした場合は、それらもクリシュナである、と言えます。どうしてそんなことが言えるのでしょう。例を挙げてみます。電気技師は電気を作りだします。家庭ではその電気が冷蔵庫の冷却装置として使われ、逆に電気ストーブのように暖房装置としても使われています。しかし、その電気を出している発電所の電気は冷たくも熱くもありません。このエネルギーの現われ方は、私たちには異なっていてもクリシュナにはおなじです。そのため、クリシュナがすることは時には激性や無知の状態でおこなわれているように見えても、電気技師にとって電気エネルギーは電気以外のなにものでもないように、クリシュナにはクリシュナそのものです。電気技師は「こちらは冷たい電気」とか「あちらは熱い電気」という区別はしません。
すべてはクリシュナによって作られました。そして『ヴェーダーンタ・スートラ』もその事实を裏づけています。Athäto brahma jijnäsä(アタートーブラフマ・ギギャーサー)、janmädy asya yatah(ジャンマーディアッシャヤタハ)「すべては最高絶対究極者から発出されている」。生命体が良いとか悪いとか考えている物事は、ただ生命体だけにあてはまることです。生命体がそのように条件づけられているからです。しかし、クリシュナは条件づけられていませんから、クリシュナにとって善悪はありません。私たちは条件づけられているために二元性に苦しめられていますが、クリシュナにとってすべては完璧です。