* 1: 9主クリシュナは、主に身をゆだねた人々を助けてくれます。窮地に追いこまれた人は、助けてくれる人にすがるものです。『バガヴァッド・ギーター』で言われているように、クリシュナは全生命体の真の友ですから、私たちは主との友好関係をよみがえらせなくてはなりません。友好関係を取りもどす方法がクリシュナ意識なのです。クリシュナ意識を实践すれば、物欲を満たそうとする望みは消えていきます。物質への渇望が私たちをクリシュナから遠ざけてきたのです。クリシュナは私たちの内に住み、私たちがクリシュナに顔を向けることを待ちつづけています。しかし、私たちは物質的な望みという木の实を夢中になって食べています。木の实を食べる激情を抑え、ブラフマン、すなわち純粋な魂という私たち本来の状態にしっかりと立たなくてはなりません。第2章唱名の方法とクリシュナを知ることハレークリシュナハレークリシュナ、クリシュナクリシュナハレーハレー/ハレーラーマハレーラーマ、ラーマラーマハレーハレー。この神聖なひびきを持つことばには精神的力がこめられています。このマントラは、心の鏡に積もった埃(ほこり)を洗いながしてくれます。物質的な心をたとえるなら、あまりの車の多さで埃や煤(すす)だらけになったここニューヨークの二番街です。物質的なことをしてきた結果、もともと純粋なはずの心の鏡に大量の埃が積もり、そのために物事を正しく映してくれません。この超越的な音響・ハレー・クリシュナ・マントラは積もった埃を拭きとり、自分本来の状態をはっきり映してくれます。「私は体ではなく、精神魂であり、その兆候は意識である」と悟れば、ほんとうの幸せが实感できます。ハレー・クリシュナを正しく唱えて心が純粋になれば、物質的なけがれはすべて消えていきます。俗界には苦しみの炎が燃えつづけ、だれもがその炎を必死に消そうとしていますが、自分本来の状態、すなわち精神生活に戻らなければその炎を消すことはできません。
主クリシュナが物質界に降誕する理由の一つは、ダルマ(dharma)を確立させ、物質存在という炎を消すことで物質界に住む全生命体を救うためにことにあります。
ヤダーヤダーヒダハルマッシャ
yadä yadä hi dharmasya
グラーニルバハヴァティバハーラタ
glänir bhavati bhärata
アビュッタハーナンムアダハルマッシャ
abhyutthänam adharmasya
タダートゥマーナンムスリジャーミャハンム
tadätmänam srjämy aham
パリトゥラーナーヤサードゥーナーンム
paritränäya sädhünäm
10ヴィナーシャーヤチャドゥシュクリターンム
vinäsäya ca duskrtäm
ダハルマ・サンムスタハーパナールタハーヤ
dharma-samsthäpanärthäya
サンバハヴァーミユゲーユゲー
sambhavämi yuge yuge
「バラタの末裔よ。わたしは、宗教活動が衰退するとき、また無宗教が台頭するとき、いつどこでも降誕する。敬虔な人々を救い、邪悪な人間たちを抹殺するために、また宗教原則を再確立させるために、わたしは各時代をとおして自ら降誕する」(『バガヴァッド・ギーター』第4章・第7-8節)
この節で使われているdharma(ダルマ)にはさまざまな英語訳が当てられています。時には「信念」と訳されますが、ヴェーダ辞典を調べると、別の意味が含まれていることがわかります。信念は変わることがありますが、ダルマは変わりません。水はつねに液体です。液体からなにかに変わったとしたら――たとえば、水が固体になったら――それは水本来の状態ではなく、特定の条件下だけで存在するものに変化しています。ヴェーダ経典が説いているように、私たちのあるべき姿は「至高者の部分体」です。ですから、全体者である至高者に意識を結びつけ、そして身をゆだねることが私たちの本来の姿・ダルマといえます。
私たちは、至高の完全体である神に崇高な奉仕をする立場にあるのに、物質とかかわっているためにその立場を忘れています。仕えること――それが私たち本来の立場です。だれもが召使いであり、主人ではありません。だれでもだれかに仕えています。総理大臣は国の最高人物ですが、同時に国民に仕えています。ところが国民は、その人物の奉仕が気に入らなければ見切りをつけます。「もうあなたは必要ない」と。「私は、自分の目に見える物すべての主人である」と考えるのは、幻想・マーヤーです。そのため、物質的な人がする奉仕は、さまざまな名称のもとで間違った方向に向かっています。このような名称と自分を切りはなし、心の鏡から埃を取りのぞけば、「私はクリシュナの永遠の召使いである」という自分本来の立場が正しく見つめられるようになります。
物質界での奉仕と精神界での奉仕をおなじ次元で考えてはなりません。「解放されても召使いのままでいなくてはならないのか」と考えて、思わずぞっとしてしまう人がいるかもしれません。なぜか?それは、召使いは虐げられるもの、という不愉快な思いをこの世界で経験しているからです。しかし、超越的な奉仕は違います。精神界では、主人も召使いも違いがありません。こちらの世界ではもちろん違っていますが、絶対的な世界ではすべてひとつです。たとえば『バガヴァッド・ギーター』の中で、クリシュナはアルジュナの召使いとしてアルジュナの馬車の御者になっています。アルジュナはクリシュナの召使いですが、ときにはクリシュナが召使いの召使いになることがあります。ですから、精神的な物事を理解するのに物質的な考えで判断してはなりません。物質的な体験はすべて、精神生活の物事が歪んで現われたものです。
私たち本来の立場であるダルマが物質のけがれのために堕落したとき、主が自ら降誕したり身近な召使いを送ったりすることがあります。イエスキリストは自らを「神の子」と呼んでいるように、至高者の代表者でもあります。またモハメッドも自分を至高者の召使いと呼んでいます。このように、私たち本来の立場に矛盾が生じたときには、至高主が自ら現われたり召使いを送ったりして、生命体が本来どうあるべきかを説きます。
ですから、ダルマのことを「作られた信念」と考えてはいけません。正しい意味では、ダルマと生命体は切り離せないものです。いわば、甘いものは砂糖、塩辛いものは塩、また固いものは石であるという条件とおなじです。それはどんな状況でも私たちと切りはなすことはできません。生命体のダルマは「仕えること」にあり、それは、だれでも自分や他人のために仕える気質をそなえていることを見れば、すぐにわかります。どうやってクリシュナに仕えるか、どうやって俗な奉仕とのかかわりから離れるか、どうやってクリシュナ意識に到達するか、そしてどうやって俗な肩書きから解放されるかが、シュリー・クリシュナによって『バガヴァッド・ギーター』で科学的に説明されています
Sädhu(サードゥ)ということばが上記の節で使われています。Paritränäya sädhünäm(パリトゥラーナーヤサードゥーナーンム)は、神聖で高尚な人物を指しています。聖者は忍耐強く、だれも敵と思わず、心はいつも穏やかです。神聖な人物を指す気質には26あり、『バガヴァッド・ギーター』でシュリー・クリシュナが次のように説明しています。
アピチェートゥスドゥラーチャーロー
api cet su-duräcäro
バジャテーマーンムアナニャ・バハーク
bhajate mäm ananya-bhäk
サードゥルエーヴァサマンタヴャハ
sädhur eva sa mantavyah
サミャグヴャヴァシトーヒサハ
samyag vyavasito hi sah
「 もっとも忌まわしいことをしても、献愛奉仕をしている人物であれば神聖な気質を持っている。正しい境地にいるからである」(『バガヴァッド・ギーター』第9章・第30節)
一般社会でも言えることですが、ある人には道徳的だと思えても別の人には不道徳的としか思えなかったり、逆に不道徳的なことが道徳的に思われたりすることがあります。ヒンドゥー教は飲酒を不道徳とするいっぽう、西洋では飲酒は不道徳どころか常識です。このように道徳の基準は、時代・場所・状況・社会的立場で変わります。それでも、道徳や不道徳の観念がどの社会にもあることに変わりありません。この節でクリシュナは、不道徳なことをしても、それが完全にクリシュナ意識の行動であれば、その人はサードゥ(sädhu)・聖者であると言っています。ことばを変えると、不道徳な習慣の中で生きてきたとしても、完全なクリシュナ意識で生きるようになれば、そのような習慣はそれほど重大な問題ではなくなるということです。どんな場合でも、クリシュナ意識になりさえすればやがて清い心になり、やがてはサードゥになります。クリシュナ意識を高めれば、悪い習慣をやめるようになり、神聖な境地に到達するということです。
このことに関連して、ある泥棒の話があります。この男はほかの人たちに混じって聖地を巡礼し、旅の途中で宿屋に泊まりました。いつもの盗み癖で、1人の巡礼者の荷物を盗もうとしました。それでもふっと考えなおしました。「俺はいま巡礼の途中だ。これを盗むのは巡礼中にすべきことじゃない。今日はやめておこう」。ところが、身にしみついた習慣はおそろしいもので、どうしても手が勝手に荷物を盗もうとするのです。ということで、だれかの荷物を盗んだかと思うと、それを別の場所に置き、また別の荷物をつかむとそれを別の場所に置く、といったことを繰りかえしました。そんな調子で一晩中荷物を動かしたり置いたりしていたのですが、良心がとがめるものですから、結局1個も盗みませんでした。朝になって巡礼者たちが目を覚まします。やがてそれぞれ自分の荷物がないのに気づき、あたりを探すのですが、どうしても見つかりません。やがて巡礼者の間でけんかが始まって大騒ぎになりましたが、そうこうしているうち、まったく別の場所でそれぞれ荷物が見つかりました。無事にすべてもどったとき、張本人の泥棒が説明をはじめました。「みなさん、私は盗みを仕事にしている者です。夜になって盗み癖がでて、みなさんの荷物に手を出したくなりました。しかし、いくらなんでも聖地では、と考えて思いとどまりました。それでも手が勝手に動いて、皆さんの荷物の場所をあちらこちらと変えてしまったのです。どうかお許しください」。これが悪い習慣の特徴です。もう泥棒はしたくないと考えても、癖になっているのでどうしてもやってしまう。そのためクリシュナは、クリシュナ意識を高めるためにこのような不道徳な習慣を捨てる決心をした人はサードゥである、と言っています。過去の悪癖のためになにかのはずみで過ちを繰りかえしたとしても。次の節でシュリー・クリシュナが言います。
クシプランムバハヴァティダハルマートゥマー
ksipram bhavati dharmätmä
シャシュヴァッチャーンティンムニガッチャティ
sasvac-chäntim nigacchati
カウンテーヤプラティジャーニーヒ
kaunteya pratijänihi
ナメーバハクタプラナッシャティ
na me bhaktah pranasyati
「その人物はすぐに正義の人となり、永遠な平安をつかむ。クンティーの子よ、わたしの献愛者は決して滅びないことを力強く宣言せよ」(『バガヴァッド・ギーター』第9章・第31節)
クリシュナ意識に身をゆだねれば、やがて神聖な気質をそなえた人間になる、とシュリー・クリシュナがこの節で宣言しています。扇風機のコンセントを抜いても羽根はしばらく回りつづけますが、いつか止まることはわかっています。ひとたびクリシュナの蓮華の御足に身をゆだねれば、カルマを引きおこす行動のスイッチを切ることができ、たとえ昔の悪癖がしばらくつづいても、やがてなくなってしまいます。クリシュナ意識に身をゆだねた人はだれでも、善人になるための努力をする必要がないのは事实です。あらゆる良い質が自然に高まってくるのですから。『シュリーマド・バーガヴァタム』でも、クリシュナ意識に到達した人物は良い質すべてを同時に得る、と言われています。いっぽう、良い質をたくさん持っていても、神を思う気持ちがまったくなければ、その善人たる質もまったく役に立ちません。なぜ?悪癖をやめる可能性がないからです。クリシュナ意識を持たなければ、物質界では必ず悪いことをするはずです。
ジャンマカルマチェメーディヴャンム
janma karma ca me divyam
エーヴァンムヨーヴェーッティタットゥヴァタハ
evam yo vetti tattvatah
テャクトゥヴァーデーハンムプナルジャンマ
tyaktvä deham punar janma
ナイティマーメーティソールジュナ
naiti mäm eti so 'rjuna
「アルジュナよ。わたしの降誕と行動の超越的質を知る者は、肉体を去ったあとに物質界にはもどらず、わたしの永遠なる住居に達する」(『バガヴァッド・ギーター』第4章・第9節)
クリシュナが降誕する使命について、さらに詳しく述べられています。主がある使命のために降誕すれば、主が何をするかも見ることができます。もちろん、神が化身として降誕することを信じない哲学者もいて、「神がこんなに堕落した世界に降りてくるものか」と言います。しかし、『バガヴァッド・ギーター』には別の教えがあります。献愛者は「『バガヴァッド・ギーター』のことばをすべて受けいれなくてはならない。そうでなければ読む意味がない」と考えるべきです。『バガヴァッド・ギーター』でクリシュナは、「化身となって使命を果たすために降誕する」と言い、じっさいにその行動もしめしています。たとえば、クリシュナはアルジュナのために御者となり、クルクシェートラの戦場でいろいろなことをしました。戦争では国や人物がどちらかの味方に付きますが、主クリシュナはアルジュナ側に付きました。じっさいはだれにでも公平に行動する方なのですが、一見アルジュナの味方になったように見えます。しかし、この行動をふつうの贔屓(ひいき)として見てはいけません。この節で主クリシュナが指摘しているのは、主の物質界への降誕は超越的だという点です。Divyam(ディヴャン)は「超越的」という意味です。主の行動に俗な質はまったくありません。今でも、インドでは8月末になると宗派の違いを問わずクリシュナの誕生日を祝います。西洋でイエスキリストの誕生をクリスマスの日に祝うのとおなじです。クリシュナの降誕日をジャンマーシュタミー(Janmästami)といい、この節でも「わたしの誕生」をjanma(ジャンマ)ということばで表現しています。「誕生」すれば「行動」するものです。クリシュナの誕生と行動が超越的であるという言い方は、ふつうの誕生や行動と違うことを表わしています。行動が超越的とはどういうことか、と尋ねる人がいるかもしれません。主は誕生し、戦争でアルジュナの側に付き、ヴァスデーヴァという父を持ち、デーヴァキーという母を持ち、また家族も持っている――では、どこが超越的なのでしょう?クリシュナは言います、evam yo vetti tattvataù(エーヴァンヨーヴェーッティタットゥヴァタハ)。私たちは主の誕生と行動を正しく理解しなくてはなりません。クリシュナの誕生と行動を真に理解すれば、その結果はtyaktvä deham punar janma naiti mäm eti so 'rjuna(テャクトゥヴァーデーハンプナルジャンマナイティマーメーティソーアルジュナ)――現在の物質の体を出たあと、ふたたび生まれることなくクリシュナの元にそのまま帰っていきます。解放された魂になるのです。永遠の精神界に行き、至福と知識と永遠性にあふれた自分本来の境地にもどるということです。これが、クリシュナの誕生と行動の超越的な質を正しく知るだけで達成されるのです。